阿部建設

百年物語

東区の親子大工

阿部貞一は1909年、名古屋の東区で生まれました。父親は大工でした。日本は世界有数の木造建築の国で、大工はとても人気のある職業でしたが、父はまだ若く、下請けの仕事しかできなかったため、貧乏ぐらしでした。

貞一は学問が大好きで勉学熱心な子どもでしたが、尋常小学校卒業後は進学を諦め、父の仕事を手伝うことになりました。頭が良く真面目な貞一は父の指導のもと、どんどん大工の腕を磨きます。1927年に金融恐慌、1930年には世界恐慌が起こり、日本も深刻な不況になりましたが、親子には順調に仕事が舞い込んできました。金城女子専門学校(現金城学院)や名古屋電気学校(現名古屋電気学園)も彼らの仕事です。

貞一が家業を継いだのは26歳の時。「建設業(請負業)は大きくなると、できものと同じでつぶれてしまう。決して大きくしてはいけない」とは、このときの父の言葉です。

先見の明と、揺るがない信念と

1937年、日中戦争が勃発。戦争のために国の総力が注がれ、小さな会社を集めて大きな力に変える企業整備が行われました。軍の仕事を請け負う「東土建株式会社」の取締役になった貞一は、空襲に備えて名古屋城の金の鯱を取り外す作業も担当したのでした。

8月、終戦。空襲でほとんどの家が消失したなか、貞一の家と工場、倉庫の大量の木材は奇跡的に戦災を免れました。

貞一は阿部建設をひとりで再開。残っていた木材を活用し、戦後の復興工事に全面的に貢献しました。金城学院の復興工事では、山から木材を買いつけ、校庭に製材工場をつくり、木材運搬費や製材費を浮かせるという斬新なアイデアにより、他が太刀打ちできない金額で工事を引き受けました。また「燃えない家をつくたい」という願いから、ブロックによる組積造での住宅建築に取り組み、特許も取得したのです。貞一の優れた先見性と、どこにも負けない良いものを提供するという信念はその後、たくさんの建物に活かされました。

1964年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通。住宅ブームの到来にもバブル経済にも踊ることなく、貞一は最後まで父のあの言葉を守りとおし、息子の美男に阿部建設の経営を託しました。

「決して大きいことが良いのではない。小さくても中身の良い会社にしたい」という言葉は、100年経った現在も引き継がれています。

取締役会長・阿部美男の想い

父・貞一が私に残した言葉があります。「会社の経営は10年のうち、苦しいときが2年、楽なときが2年、あとの6年は泣かず飛ばずで過ぎる」と。また「人生のうち大きなチャンスは2回くる。そのチャンスをつかんだ人は幸せである。大半の人がそれを逃している」とも。自らの半生を回顧しての達観で、自分はそのチャンスを捕らえ、機に恵まれたという思いがあったのでしょう。

父の死とバブル崩壊。私が阿部建設の経営を引き継ぎ、初めて迎えた大きな転機でした。建築業界全般が低迷状況に苦しみ、不良債権を抱えた大手・中小ゼネコンを中心に再建、再編の動きが目立ったなか、私が新しく打ち出した会社の方針は「自分が好きな仕事を選ぼう」といういたって基本的なものでした。「儲かるから」ではなく「好きだから」。良い住宅を建てるとお客さまは本当に喜んでくださいます。良い住宅をつくりたい家族は、必ず家庭円満です。揉めている家族は、家なんて建てませんから。建築のなかで最も健全で、最も喜ばれるのが住宅です。だから、自分が良いと思うものしかすすめてはいけないという原点に立ち返れたこのときが、まさしく父の言う、私にとって人生の大きなチャンスだったように思います。

幼少時、中津川近郊の山へ父と山師さんとよく一緒に行ったものです。そのとき山師さんが必ず持ってきてくれたのは、焼きおにぎり。もし道に迷って山を降りることができなかったときには、これじゃなければだめなんだ、と。沢の水のおいしさとともに、このようなことが懐かしく思い出されます。

阿部建設株式会社 取締役会長阿部 美男Yoshio Abe

副会長・阿部英臣の想い

小さいころから父(貞一)を見ていて、子どもながらによく働くなと思っていました。父が休んだところは見たことがない。それでも一度「明日は夏休みの思い出にに連れていってやる」と言ってくれたことがありました。でも、なかなか帰ってこない(笑)。15時にやっと帰ってきたけれど、海に着いたらもう夕方で水が冷たかったという思い出があります。

世の中が好景気でも同じでした。人間は儲かると贅沢をしたくなるものだと思うのですが、そういうことはまったくありませんでした。男として立派で、父の姿そのものが教育でした。私たち5人兄弟はごはんを食べることができたのは、父がお客さまを大事にしたからに違いありません。

最近、地方の小・中学校で木造校舎が復活してきています。もしかすると、コンクリートの建物と非行の因果関係が発見されたのかもしれません。荒れた子は無機質なコンクリートを蹴飛ばしますが、コンクリートはびくともしません。だからなんの愛着心も生まれず、ケンカしたときの加減がわからない子どもが増えています。木造は力のついた元気な子どもが蹴飛ばしたら、それこそ建具の1本も壊れてしまいます。そういうことから、ものは大事にしないといけないという気づきが生まれるのだと思います。木に囲まれた成長期の6年間はとても大きなもの。耐火性・合理性だけで考えるのではなく、情緒教育として木造校舎が見直されてきたことはとても嬉しいことです。

いくら世の中が変わろうが、デザインが変わろうが、家族があたたかく住める家の基本は変わらないはず。阿部建設も、100年続いた愛情がこもった家づくりを、これからも忘れずに継承しなくてはいけません。それは10年、20年住んでいただいてから結果が出る家づくりです。

阿部建設株式会社 副会長阿部 英臣Hideomi Abe